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毎年同じ場所なのは、同じ個体だからだろう。見た目は雀だが、何かが違う。どことなく高級な模様があり、気がつけば、昼間の喧噪の中、夕方の黄昏、ある時は電線に、ある時はアンテナにおり、のべつ似たような歌を歌う。それでも首尾良く巣が出来た後は、人を侵入者扱いして、近づくと警戒音を出して威嚇したりする。夏の終わりには、幼鳥を連れているが、秋が近づくといつの間にかいなくなる。冬を避けて、南に移動するらしい。 ホーカン・アウストボが弾く「鳥のカタログ」の、断片を切り貼りした様な音像は、空間の隙間を際立たせる。囀りに隠れている無音の位相を聞かせてくれる。風通し良く居心地良い環境を演出してくれるのだ。ホオジロも素晴らしい。
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by pqch-fe9
| 2025-07-04 16:49
| Music
![]() 瀧口修造詩編の英訳本が出版された。代表的な作品35篇ほどの英訳と原文の日本語を並べて収録したものだ。英訳は殆ど逐語訳で、「詩とは何か?」という感じだが、日本語を見ると、それが思いがけず生硬で青臭い言葉使いであることに、初めて気付かされ驚いた。不遜ながら、直せばいいのに、これでは未完成ではないかと思ったが、そういえば、確かに未完成のままの筈だ。これは「詩的実験」なのだ。 元本になる詩集「瀧口修造の詩的実験1927~1937」収録の作品は1927年から37年に書かれたものだが、詩集が出版されたのは1967年である。印刷の版下を作るために、瀧口自身が全作品を清書した当時の原稿を、2013年小樽文学館の特別展で見たことがある。鉛筆書きのつたない文字だったと思うのだが、収集された原稿や掲載同人誌などから、一字一句変更せず、或いは変更出来ずに筆写した旨がどこかに記してあった。しかし、自分で全部写すなら、なぜ書き直さなかったのだろうとその時は思っていた。 1926年、瀧口は留学帰りの西脇順三郎からヨーロッパのモダニズム文学を紹介され大きな影響を受ける。彼の作品は最先端のシュルレアリスムが生み出した自動記述の方法で書かれた。原理的に自動記述に推敲などそぐわないのだろうが、この手法を開発したアンドレ・ブルトンは、最初期の詩集「磁場」や「溶ける魚」に収録した作品について多少の推敲を施したと後に述べていた。それは推敲というよりも自己検閲に近く、問題ありと思われる箇所を書き換えたということだったと思う。それを知ったのはもう何年も前のことだが、「なんだ、そうだったのか。」と裏切られた気がした。今考えれば、「それがどうした。」という気もするのだ。 瀧口の詩篇でいかにも自動筆記らしいのは、27年の Étamines Narratives から31年の「絶対への接吻」までであり、それ以外、特に行分けされた作品では、それなりの推敲や構成の検討を経ているように思われる。瀧口は詩集編纂にあたって、作品を「詩」とは呼ばず「詩的実験」と呼んだ程であったから、40年前に書いたものを推敲して完成させる、という発想はなかっただろう。今となっては推測するしかないのだが、記述した当時であっても、推敲するとか、書き直すということがあっただろうか。同じくシュルレアリスムの絵画手法であるデカルコマニーの様に、出来たものから見栄えのいいものを選ぶ、位の感じではなかったか。実際、瀧口はデカルコマニーによる作品も後年になって多数制作している。 自動記述は、よく書けることもあれば、全然駄目なこともある。最初はそれなりに感動的だが、繰り返していくうちにマンネリに陥ることになる。才能がないからだと言えば、それまでだが、ある程度の時間をおけば、また違った感じが出てくる。いずれにせよ、語句の書き換えや位置の編集など、推敲の余地はいくらでもある。しかし、少々変えたところで全体はそれほど変わらないとも言える。 そもそも自動とはいえ、書くのは作家であり、いつでも都合良くお告げが降りてくる筈もない。勝手に手が動いて日月神示を書いた岡本天明なら、確かに自動だろうが、心に浮かぶよしなしごとを一切の検閲なしにそのまま書くというのでは、語彙や構文のレベルで人により様々な要素に影響されるだろう。それでも、前後の脈絡も文脈も殆ど感じられず、書いた本人にもそれなりに正体不明でわけのわからないものが出来てしまう、という仕組みが秀逸なのだ。 しかし、どんな文章でも、何か書いたとして、本当に全部自分が書いたと言えるだろうか。いかなる内容であれ、言いたいことは十分に表現できた、など、随分おめでたいね、ではないのか。元々言葉は借り物であり、何かを伝えようとする限り、お手本に習うしかないのだ。初めに確固とした「言いたいこと」があり、それを表現する、などという図式は、実際とは相当違うのではないか。 「言いたいこと」がない状態で何かを書く、それが「自動筆記」だろう。特に内容もない記述には「書くこと自体」の姿が現れるのではないか。それを推敲する時、意味内容と関係のない要素が洗練される。それは何かを伝えるためではない。意味伝達のための言葉ではなく、言葉それ自体が問題なのだ。 自動記述に手を加えるかどうかは問題ではない。推敲してよくなるなら、それでよいのだし、そのままでよいのなら、それでよいのだ。問題は何をもって「よい」とするかだろう。そこに好みや趣味、価値観や世界観が反映される。それを推敲によって理想的な状態にすることが可能なのだ。記述した直後に、たまたま実現した天衣無縫をみとめることもあるだろうが、それでは実験レベルに留まってしまう。瀧口の「詩的実験」は先に進むことは諦めた、或いは出来なかったのだろう。 「超現実主義宣言」から100年、いつまで「言いたいこと」を問題にするのか? #
by pqch-fe9
| 2025-02-23 13:44
| Poetry
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by pqch-fe9
| 2024-09-15 15:58
| Poetry
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